COLUMN
第18回:野球と信仰(後編)
私は中学生のときに親元を離れて留学したため、渡米して間もなかったころ、現地の教育コンサルタントの人に後見人になってもらいました。その彼と他愛のない会話をしていたとき、感嘆を表そうと、「オーマイゴッド」という表現を使いました。英語を勉強し始めてまだ日が浅かった私は、映画のセリフや曲の歌詞などでよく耳にすることから、英語話者が単に驚きを示すために用いる表現と思い、あまり深く考えずにそれを発しました。すると彼は突然表情を険しくして、「それは言ってはいけない言葉だ。私や妻がそんなことを君の前で一度でも言ったことはあったかい?どうしても言いたければ、“Oh my goodness”と言いなさい。」と教わりました。そのとき私は初めて、キリスト教の文化では神の名を簡単に口にしてはいけないことを知りました。
宗教色が米国などほど色濃くない日本では、この「神」や「信仰」について日常的に語られることはほとんどありません。特に「唯一神」を信仰するキリスト教の国々と、「やおよろずのかみ」の言葉が示すように、たくさんの神々が信仰されている日本では、その感覚は大いに異なります。それを念頭に置いて通訳しなければ外国人選手と日本人関係者の間に思わぬ誤解を招き、また双方の言葉を直訳してしまうことでどちらかが顰蹙を買う可能性もあります。異文化間のコミュニケーションを円滑にして軋轢を防ぐために、宗教に関わる言葉は細心の注意を払って訳す必要があります。
「神のご加護があって」という表現は、勝利を収めたスポーツ選手が頻繁に使います。しかし、日本人のアスリートが同じような表現を使うことはほぼありません。このような場合は「おかげさまで」など、日本人の耳にも自然に聞こえる訳し方にします。また、「神助っ人」や「神ってる」など、日本人は彼らを称えるために言っているつもりでも、信心深い選手は自分が神の位置づけを受けることに違和感を覚える可能性もあるため、それらの表現は意訳して彼らに伝えます。
上記以外にも、文化の違いを念頭に気を使って訳す場面はたくさんありますが、通訳者はその名が示す通り、双方の文化に「通」じていて、その上で適切な「訳」語を付けなければならないと、日々実感しています。
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前田悠也
東京都出身。中学から米国に留学。現在、巨人軍英語通訳